楽曲紹介「後甲板にて(On The Quarter Deck)」

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第4回目は、「後甲板にて(On The Quarter Deck)」をご紹介します。

 「後甲板にて」はイギリスのケネス・アルフォードKenneth Joseph Alford(1881-1945)によって作られたマーチです。
第一次世界大戦の戦争中にあたる1917年に作曲されたもので、イギリス軍を讃え鼓舞するために作られたといわれています。

「イギリスのマーチ王」ケネス・アルフォード

 アルフォードは英国陸軍の楽長であり、英国海兵隊の音楽監督でもありました。
「アルフォード」は作曲用のペンネームですので、本名のリケッツ少佐Frederick Joseph Rickettsと紹介されることもあります。
作曲時にペンネームを用いたのは、曲を出版して対価を得るのは軍人らしくないとする、当時の風潮に配慮したためと言われています。

 アルフォードは軍楽のキャリアに憧れて、14歳のとき陸軍の歩兵連隊である、王立アイルランド連隊the Royal Irish Regimentに入隊しました。
コルネットやピアノのほか、あらゆる楽器の奏法を学ぶなど、積極的で人に好かれるタイプだったそうです。
その後、優秀さが認められて、王立陸軍音楽学校で学ぶ機会を得ます。ここで2年かけて高度な音楽知識を身に付け、作曲家としての下地を築いていきました。

 1908年、28歳のとき陸軍の歩兵大隊の楽長に任命されました。
スコットランドからの募兵による、 アーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ(Argyll and Sutherland Highlanders)第2大隊という部隊の楽団でした。
この時から1927年までの間に、「ボギー大佐Colonel Bogey」など、11曲のマーチを作曲しました。

 1927年、アルフォードはイギリス王立海兵隊バンドに移り音楽監督を務めました。
このバンドは日本ではロイヤル・マリーンズ・バンドRoyal Marines Bandという名前で知られています。
海兵隊時代にもアルフォードは珠玉のマーチを作曲しました。 マーチの名曲を多数残したことから、アルフォードは「イギリスのマーチ王」と言われています。

第一次世界大戦とアルフォード

 1914年、協商国(ロシア、フランス、イギリス)と同盟国(ドイツ、オーストリア)の陣営が衝突し、第一次世界大戦が始まりました。
戦争は当初の見込みを裏切り、1918年まで続きました。

 戦争が長引く中で関係国の植民地も巻き込み、アメリカなど途中から参戦する国もあり、今でいう50か国が関与することになりました。
主戦場はヨーロッパですが、植民地があった関係でヨーロッパ以外の地域にも戦禍が波及して、文字通りの世界戦争になりました。
民間人を動員した総力戦となり、戦車、毒ガス、航空機など科学力を投入した結果、900万人以上の戦闘員に加えて、民間人も700万人以上が死亡したとされています。

 大戦中、アルフォードは楽団と共に、イギリス北部にある町・エディンバラの大隊に赴任することになりました。
赴任中に英国軍に捧げるマーチをいくつか書いています。

・「グレート・リトル・アーミー(The Great Little Army)」(1916年)
   …これは西部戦線で奮闘する兵士を励ますマーチです。 曲名には敵軍(ドイツ軍)がイギリス軍を「小軍」と呼ぶのを跳ね除ける意味があります。

・「海軍士官候補生(The Middy)」(1917年)
   …軍の階級には、士官、下士官、兵の3つがあります。士官は作戦を指揮する立場の人で、「Middy」は将来士官になる見込みの人のことです。

・「砲声(The Voice of the Guns)」(1917年)
   …イギリス軍を大砲になぞらえて讃えるマーチです。

「後甲板にて」もこうした中で書かれた曲で、「ユトランド沖海戦」を戦ったイギリス海軍士官を讃えるために作られたものといわれています。

ユトランド沖海戦とは

足かけ5年に及ぶ戦いの中、第一次世界大戦の最大の海戦といわれたのが、「ユトランド沖海戦」でした。


 当初の予想に反して陸地での戦いが膠着状態になると、両陣営は海から相手を攻める作戦に出ました。
しかし海から攻めるには制海権を確保しなければいけません。 当時、協商国側はアメリカから物資補給をしていましたので、海上輸送路の確保は重要でした。
またドイツ側は潜水艦を使って協商国側の物資補給を攻撃していましたが、ドイツから大西洋に出るにはイギリス海軍を破る必要がありました。

 1916年、ついにイギリス海軍とドイツ海軍が対戦します。戦場はデンマークのユトランド半島沖です。
この戦いは 艦船200隻以上が投入された決戦となりました。 戦闘はたった半日で終結しましたが、イギリス海軍は6000名,ドイツ海軍は2500名の死者を出しました。

 失った艦船数、死者数ともイギリスのほうが大きかったのですが、 イギリスはもともと艦船の数が多かったので、この海戦後もイギリスの優位は変わりませんでした。
一方のドイツ海軍は残った艦船を帰還させることに成功し、その後もイギリスに対して潜在的な脅威であり続けました。
イギリスはドイツ海軍を壊滅できず、ドイツも制海権を獲得できず、双方とも相手国に致命的な打撃を与えることはできませんでした。
それでも双方とも自国の勝利を主張しあったということです。

マーチ「後甲板にて」

 6000名の死者を出した苦い「勝利」にも拘わらず、「後甲板にて」は、潮風を感じる明るいマーチになっています。

 曲名である「後甲板」とは、船の甲板のうちメイン・マストの後方を占める部分のことです。
帆船時代はハーフ・デッキのさらに半分程度の広さだったのでクォーター・デッキと呼んだそうです。
通常この部分は一段高く作られ、見張り員のほかは船長と士官以外は立入禁止の区域です。
船長はクォーター・デッキから船を指揮し、軍艦旗(the ship's colors)も掲げられます。
帆船ではないので、軍艦にマストはありませんが、マストがあった位置には帆の代わりにレーダーや見張り台が
設置されることが多いので、すぐ近くにある後甲板は船にとって重要な領域なのです。

 軍艦旗が掲げられた後甲板は、各種の儀式が行われる場所でもありました。
ユトランド沖海戦を果敢に戦った士官を讃えるのにふさわしい場所といえるでしょう。

 ちなみに、「the quarter」といえば上級船員のことです。 また、「海軍士官候補生」を意味するThe Middy はmidshipman の略です。
直訳すると「船の中ほどの人」ということになります。 士官候補生は後甲板の近く、メイン・マストの近くの持ち場を任されることが多いからだそうです。



今回は歴史的背景の他に、軍の階級や船についても調べてみました。曲にまつわる新しい知識との出会いは、いつも驚きと発見をもたらしてくれます。
ではまた。