「タンゴ」Tango
Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「関連情報」では、では、当団で取り上げている楽曲に関連するマメ知識をご紹介していきます。
第2回目は、「タンゴ」をご紹介します。
タンゴは、1880年代に南米アルゼンチンのラプラタ川沿いで盛んになったダンスです。 20世紀初頭にはヨーロッパでも知られるようになり、パリで大流行しました。
社交ダンスの重要なレパートリーの一つでもあるタンゴ。おしゃれなステップはまさに大人のダンス、という感じですね。
今回はタンゴの魅力についてみていきましょう。

タンゴのはじまり
タンゴの起源については、いくつかの説があるようです。
ひとつは、18世紀後半にスペインで始まったとするものです。この説では、タンゴは19世紀後半に移民によってアルゼンチンに伝わったとしています。
ほかには、もともとアフリカ人の間で「タンゴ」 と称する音楽があったという説や、 ハバネラやミロンガなど別の音楽に影響されて生まれたという説などがあります。 ミロンガもアフリカ系のダンスで、1870年代にアルゼンチンで流行していたということです。
このように諸説ありますが、タンゴの楽譜で一番古いものは1880年に作曲された「Bartoloバルトーロ」という曲だそうです。 これにより、遅くとも1880年代にはブエノスアイレスで踊られていたと考えられています。
「南米のパリ」ブエノスアイレス
タンゴが始まったころのブエノスアイレスはどんな町だったのでしょうか。 そもそもブエノスアイレスはスペインの植民都市として作られた町で、港町として栄えました。 1880年にアルゼンチンの首都になったころから自由貿易港として発展し、南米切っての大都会になりました。 他の南米各地の町とは全く違い、南米のパリとも言われるほど整った街並みを持つヨーロッパ風の町でした。
ブエノスアイレスは町の西欧化が進んだ一方で、イタリア、スペインからも移民を受入れていました。 移民の多くは生活が厳しく、ブエノスアイレスの港にほど近い、ラ・ボカLa Boca地区などに集まって暮らしていました。
当時の港は現在の港より南にあり、ラ・ボカ地区は港と目と鼻の先に位置していました。 傍らを流れる川は町の急速な開発と共に汚染が進み、ときどき増水してあふれるといった具合でした。 そんなラ・ボカ地区の酒場で踊られていたのがタンゴなのです。
現在のラ・ボカ地区はカラフルに塗られたトタン貼りの小屋が立ち並ぶ路地や、タンゴ・アーティストによるパフォーマンスなどで人気の観光スポットです。 また、伝説のサッカー選手・マラドーナが在籍したサッカークラブ・「ボカ・ジュニアーズ」の本拠地として知られています。

情熱と哀愁
タンゴの特徴は何といってもリズムですね。一拍めと三拍めに出る強いスタカート。 そして一拍めのアウフタクト。演奏のときは1拍めの前に深い「溜め」をおくのがタンゴらしさのポイントとされています。
これに対してメロディーはメランコリックかつドラマチックです。アルゼンチン・タンゴの場合、メロディーにはバンドネオンという楽器が使われます。 この楽器は哀愁を帯びた音色が特徴ですが、音量もあり、切れのあるリズムも出せます。バンドネオンのこうした特色はタンゴにぴったりで、1900年ころからダンス会場で使われるようになったそうです。
バンドネオンはアコーディオンを参考にして作られた楽器なので形は似ていますが、鍵盤ではなくてボタンになっていることが大きく違う点です。 ボタンの配置を覚える必要がある上、重さもあり、習得が大変難しい楽器らしいです。
情熱的な面とロマンティックな面とが同居しているのがタンゴの魅力といえるでしょう。 モノクロの往時の名作映画を観ているような気分になりますね。
タンゴの名曲
タンゴの名曲を少しご紹介しましょう。
「エル・チョクロ(El Choclo)」
アンヘル・ビジョルド(ヴィロルド)Ángel G. Villoldo(1861-1919)が1903年に作曲しました。 第一次世界大戦中の1916年に外国報道機関向けの晩餐会で国歌の代わりに演奏したところ好評を得て、 この曲が広く知られるきっかけとなりました。後にさまざまな歌詞がついてアメリカや日本でも歌われました。
「ラ・クンパルシータ(La Cumparsita)」
ウルグアイの作曲家・ヘラルド・マトス・ロドリゲスGerardo Matos Rodríguez(1897-1948)が1917年に作曲しました。 ウルグアイはブエノスアイレスの川向うにあり、歴史的にもアルゼンチンと深いつながりのある国です。ことタンゴに関しては、多くの作曲家と作品があり、アルゼンチンと並ぶタンゴの本家と言っていいでしょう。
この曲は、地元ウルグアイでは「タンゴの国歌」とも称されています。世界に知られた名曲で、日本でも小学4年生で習うことになっているようです。この曲には歌詞があります。夫が愛人を作って去っていき、残された妻は悲しみに暮れるという内容です。
「スール(Sur)」
アニバル・トロイロAníbal Troilo(1914-1975)は作曲家ですが、楽団を率いて演奏活動もしていました。 1948年に書かれたこの曲は、変わってしまった近所を見て若い日の失われた恋を思い出し、過ぎ去ったものへの郷愁に浸るというものです。歌詞のあるタンゴとしては傑作とされています。
いろいろなタンゴ
アルゼンチンの上流階層の芸術家によりタンゴがヨーロッパに紹介されたのは、1910年ころと言われています。 パリで流行すると同時にタンゴのスタイルも見直されるようになり、文化的に洗練されたダンスになったということです。 多くの楽団がタンゴを演奏するようになり、本場アルゼンチンでもタンゴを自国の文化として認識するようになりました。
その後、その国の文化や政治・政策による統制、ファッションの流行、ダンス会場の広さなど、さまざまな事情により、タンゴにはいくつかの種類が生まれました。
アルゼンチン・タンゴ
19世紀以来の伝統的なタンゴです。アルゼンチン・タンゴはバンドネオンが用いられることや打楽器が使われないことが特徴です。
サロン・タンゴ
第二次世界大戦中、アルゼンチンは中立を保ち戦禍を回避できました。 このため、戦中から戦後の一時期、アルゼンチンは経済的に繁栄していました。
これと重なる1935年から1952年はタンゴの黄金時代に当たります。 このころにブエノスアイレスのダンスホールで演奏されたタンゴがサロン・タンゴ(タンゴ・デ・サロン)です。 上流階級によって踊られ、遅めのテンポで優雅なのが特徴です。
ボールルーム・タンゴ
ヨーロッパで生まれたスタイルです。バンドネオンではなく、アコーディオンや管弦楽で演奏されます。コンチネンタル・タンゴともいうそうです。
社交ダンスのスタイルでもあり、ワルツなどと並んでスタンダード種目の中の一つとされています。タンゴはアルゼンチン発祥のダンスですが、ラテン種目という位置づけでないのは、ボールルーム・タンゴがヨーロッパ生まれのスタイルだからですね。
ちなみに、アメリカでもタンゴが知られるようになり、「北米タンゴ」という独自のタンゴが生まれました。速めのテンポが特徴です。
タンゴをめぐる伝統と革新
以上紹介したほかにも、ジャズやクラシックとタンゴを融合させるとか、ギターなど今まで使われてこなかった楽器を用いて演奏する、といった試みもあるようです。タンゴをめぐるこうした動きを見ると、音楽というのは生き物のようにも思えてきます。常に生まれ変わろうとする庶民的なエネルギーやバイタリティを感じますね。これまでもタンゴは時代や環境に合わせてスタイルを変えてきました。そしてこれからも変化し続けていくことでしょう。
ただし、革新の一方で、タンゴの本来のスタイルにこだわる人が多いのも事実のようです。 それだけタンゴは人々に愛され大事にされているのだ、ともいえるでしょう。
日本では、戦前・戦後を含めて、タンゴが流行した時期が何度もありました。
次のブーム到来に備えて、という訳ではありませんが、ブルースカイでもアンヘル・ビジョルドの「エル・チョクロ」やルロイ・アンダーソンの「ブルー・タンゴ」など往時のヒット曲を練習しています。いつか演奏会でお披露目できると嬉しいです。