楽曲紹介「行進曲『箱根の山』」

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第12回目は、「行進曲『箱根の山』」をご紹介します。

この曲は瀧廉太郎作曲の『箱根八里』を金井一文編曲により行進曲風にしたものです。

古来、箱根山はその険しさゆえに山岳信仰の山として知られてきました。唱歌『箱根八里』では箱根の山の険しさと深い自然が謳われています。
中国の漢詩風の大変に難しい歌詞がついていますが、小学校六年生の鑑賞教材ということで知名度はある曲かと思います。

8月の休日・山の日は過ぎてしまいましたが、遅ればせながら今回は山にちなんだ楽曲です。

箱根山とは

 箱根山の最高峰は1437Mで、山全体が巨大なカルデラになっています。長期にわたり火山活動が続いた結果、山頂がいくつもある複雑な形になりました。 今はロープウェイが通う観光地ですが、昔は箱根権現に象徴される山岳信仰の対象としてあがめられてきたそうです。

 昔から箱根山には北に迂回する足柄街道と、箱根山を直登する湯坂道とがありました。 しかし江戸時代になると、幕府が街道の整備に着手し、箱根山越えの道は大きく変更されました。 東海道を整備するにあたり、足柄街道ではなく箱根山を通過する道が選ばれたのです。

 この道を通過することを強要したのは、距離が短いからだけではありません。箱根権現の神域は立ち入り禁止であり、箱根山を通る道には脇道がないので通行人をもらさず管理でき、江戸防衛には好都合だったのです。 箱根山中には箱根関所が設けられ、通行人をきびしくチェックしていました。 浜名湖にあった新居(あらい)関所と並び、箱根関所は幕府にとって最も重要とされた関所でした。

 関所があったのは芦ノ湖近くの箱根宿のあたりでした。箱根宿の東側は小田原まで4里、西側は三島まで4里あります。これが箱根八里と言われる所以です。 32キロに及ぶ山道にはぬかるんだ急勾配の狭い坂もあり、日本の要道とは思えない悪路でした。しかし杉を植え、石畳を敷き、土を盛って一里塚を築くなど、街道は次第に整備されていきました。 険しい山道を整備した当時の人の労苦が偲ばれる箱根路ですが、現在は車道が新たに建設されたため、通る人もない古道となっています。

明治時代の西洋音楽事情

 明治時代の中頃。芸術分野においても西洋文化の波が押し寄せていました。 しかし、多くの音楽家が試行錯誤するものの、その会得は困難なものがありました。西洋のメロディーに日本語の歌詞を当てはめただけで、曲として不自然なものが多かったのです。 暗中模索が続く中、日本人作曲家による日本の唱歌を望む声が高まっていました。そのような中、瀧廉太郎が作った歌曲は、まさに時代の要請に合うものでした。

 政府の教育政策を見てみますと、この時代は一部の教科については国定の教科書が用いられていましたが、音楽(唱歌)は民間の検定教科書が使われることが多かったようです。 こうした状況に対し、文部省は明治から昭和にかけて唱歌集を編纂し、小学校や中学校の音楽の教科書などに掲載するなどしていました。

 唱歌集は『小学唱歌集』、『国民唱歌集』など何種類も作られています。このうち中学用として編纂されたものには『中等唱歌集』や『中学唱歌』がありました。 『中学唱歌』は1901年(明34年)に編纂されたもので、この中に瀧廉太郎の『箱根八里』と『荒城月』の2曲が載っています。 文部省の方針として唱歌の曲は作詞者・作曲者が伏せられているものですが、『箱根八里』や『荒城月』については学識者の研究によって瀧廉太郎の作と判明したということです。

 唱歌集を頼りにすれば、『箱根八里』は中学の生徒を対象とした曲ということになります。当時の中学というは現在の高校に相当する学齢でしたので、漢文調の文学的な歌詞も背伸びすれば何とか理解できたかも知れません。

西洋音楽の先達たち

作詞者・鳥居忱

 『箱根八里』の作詞者・鳥居忱(まこと)(1853-1917)は江戸時代の末期、壬生藩の江戸家老を務める家に生まれました。壬生藩は現在の栃木県あたりにあり、鳥居氏が代々治めていた藩でした。 ほどなくして時代は明治となりますが、鳥居忱は現在でいうところの東京大学や東京外国語大学といった一流の学問の府で修業したそうです。 音楽についても、音楽取調掛(現在の東京芸術大学)で学びました。

 卒業後は第一高等中学校(現在の東京大学教養学部)や東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授を務めました。 日本における西洋音楽の草分けとして『音楽理論』のほか軍歌の歌集などを著述しています。 作詞家としても活動しましたが、『箱根八里』は48歳ころの作ということになります。

作曲者・瀧廉太郎

 瀧廉太郎(1879-1903)は九州・日出藩の家老を代々務める家に生まれました。父は明治政府の内務官僚でした。 廉太郎は高等小学校を卒業後、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学し作曲とピアノに取り組みました。 当時は東京音楽学校は専門学校の位置付けでしたので、15歳で入学可能でした。19歳で卒業後、さらに研究科に進んでいます。

 1901年、日本人の音楽家では3人目となるヨーロッパ留学をします。ドイツのベルリン、ライプツィヒで学びましたが、肺結核を発病したため志半ばで帰国し療養するも、23歳で死去しました。

 廉太郎は短い生涯の中で歌曲を中心に34曲を残しました。『箱根八里』、『荒城の月』のような漢詩調のもののほか、「春のうららの隅田川」で始まる『花』や、「もういくつねると」で誰もが知る『お正月』のような親しみやすい曲もあります。明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家・ピアニスト・作曲家の一人に数えられています。

 尚、氏名については現在は新字で「滝 廉太郎」と表記される方が多いそうです。

名曲に偲ばれる明治という時代

 『箱根八里』の作曲は1900年(明治33年)ですので、滝廉太郎が21歳の時でした。 廉太郎は箱根の芦之湯にある温泉宿に泊まり、その時に作曲したとされています。歌詞は廉太郎の母校・東京音楽学校の教授である鳥居忱によるものですが、 曲をつけるのは困難という周囲の予想を裏切り、廉太郎は歌詞の意味とリズムに合致したみごとなメロディーを付けました。

 一方、この曲の歌詞には、"白髪三千丈"的な漢詩由来の誇張が随所に見られます。 たとえば山の険阻ぶりは中国の難所以上としています。漢詩の世界観からすると事実上、世界一ということになるでしょうか。 山の高さは「萬丈」、谷の深さは「千仞」としてスケール感を強調し、万余の敵も寄せ付けない難攻不落の地である、としています。

 その一方で、山には雲湧き、谷には霧静まり、緑なす苔や杉並木という具合に遠景・近景の対比もあり、清涼なる深山らしさ、自然の美しさにもあふれています。 大きな誇張も小さな誤差として歌い飛ばすような痛快な表現と、無垢で深淵な颯々たる山の気が迫る自然描写を伴ったすばらしい詩です。

 そのほかにも、この道を勇ましく往来したであろう往時の武士に思いを馳せたり、山道を闊歩する近時の狩人を引き合いに出したり。 まさに質実剛健。剛毅な気分も湧いてきます。維新から30年。日本が日進月歩で強国化をめざしていたころの曲です。進取・進歩の気風に満ちた明治という時代に思いを馳せずにはいられません。