楽曲紹介「エル・チョクロ(El Choclo)」
Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第15回は、「エル・チョクロ(El Choclo)」をご紹介します。
タンゴはアルゼンチン発祥の音楽ですが、1910年ころヨーロッパにタンゴが紹介されると、パリでタンゴのブームが起きました。 そうしたヨーロッパにおけるタンゴの流行に一役買ったのが『エル・チョクロ』という曲です。 今回は哀愁漂うアルゼンチンタンゴの名曲のお話です。

タンゴの始まり
ブエノスアイレスは1880年にアルゼンチンの首都になったころから自由貿易港として発展し、南米のパリとも言われるほど整った街並みを持つヨーロッパ風の町になりました。
町が発展する一方で、イタリア、スペインからの移民も増加しました。移民の多くは生活が厳しく、港近くの場末に集まって暮らしていました。 ここで生まれた音楽がタンゴの始まりとされています。当時は下層社会の音楽として上中流社会から蔑視されていたのです。
しかし、音楽としてのスタイルや表現の洗練に加え、ヨーロッパでも流行するようになると、アルゼンチンを代表する音楽として認められるようになりました。 多くの楽団がタンゴを演奏するようになり、本場アルゼンチンでもタンゴを自国の文化として認識するようになりました。
タンゴといえば『エル・チョクロ』
『エル・チョクロ』はヨーロッパにおいてタンゴが知られるきっかけとなった曲で、これについては、いくつかのエピソードが残されています。
第一次世界大戦中の1916年のこと。ドイツ戦線で外国報道機関向けの晩餐会が開催されました。 この席で出場国は国歌を演奏することになっていたのですが、アルゼンチンは国歌の楽譜を用意していませんでした。 そこで暗記していた『エル・チョクロ』を演奏したところ、この曲が広く知られるようになった、ということです。
これとは別に、1905年にアルゼンチン海軍の練習艦がヨーロッパを訪問した際、この曲の楽譜を持参して初めてタンゴなるものを紹介した、 というエピソードもあるようです。
ビジョルドとトウモロコシ
『エル・チョクロ』はアルゼンチンの作曲家アンヘル・ビジョルド(ヴィロルド)Ángel G. Villoldo(1861-1919)が1903年に作曲しました。 ビジョルドはブエノスアイレスの出身で、作詞家、作曲家として活動しました。タンゴ音楽のパイオニア的存在というべき存在です。
代表作は『エル チョクロ』ですが、他にも『エル トリトEl torito』、『ウナ フィハUna fija』などのタンゴを作曲しました。 『ラモロチャLa morocha』もヨーロッパで人気を博したタンゴです。
ビジョルドは詩や散文も書いていたそうです。その作風は庶民の言葉で庶民の行動を描き、機知と皮肉に満ちていたと評されています。 この評価からすると、庶民(中でも最下層の人々)の不満や悲しみ・絶望を当事者の言葉で語る作家だった、と理解できそうです。
エル・チョクロとは、スペイン語で「トウモロコシ」(正確にはトウモロコシの穂軸)という意味です。曲名の由来には諸説あり、ビジョルドがトウモロコシが好きだったからとも、実在した人物のあだ名ともいわれています。
ビジョルドの歌詞は難解で含みがありますが、表向きの意味を追うと以下のような感じかと思います。 人が私の歌にケチをつけようが自分は自分、バナナのような金色のトウモロコシがあれば憂さも晴れる。 トウモロコシがストーブで焼けるのを見ていると気持ちが穏やかになる。あたりでは料理フミタhumitaを作ったり歌やダンスの気配がする、といった具合です。 貧しく素朴な片田舎で働く男のささやかな日常を歌っているように受け取れます。貧しい人々の日常を等身大に歌うのがタンゴなんですね。
フミタはトウモロコシを使う料理です。アルゼンチンにはトウモロコシを使う伝統料理プチェロPucheroというのもあるそうです。この国の文化を語る重要アイテムなんですね。
ディセポロとトウモロコシ
この曲には1946年にエンリケ・サントス・ディセポロ(ディセポリン)Enrique Santos Discépolo(1901-1951)が別の歌詞を付けています。本家のビジョルドの歌詞より有名かも知れません。
ディセポロは17歳で俳優になり、27歳から作曲も始めました。タンゴの作詞家、作曲家として知られていますが、本業は舞台俳優、劇作家でした。モンテビデオとブエノスアイレスの劇場で次々とヒットを出したほか、1930年代には映画も手がけました。
タンゴとしては、『ジーラ・ジーラ』(1930年)、『カンバラッチェ』(1934年)、『アルマ デ バンドネオン』(1935年)、『デセンカント』(1937年)、『カンシオン デセスペラーダ』(1944年)などを作曲しました。タンゴ『ウノ』(1943年)も有名です。
ディセポロの歌詞は、ルイス・ブニュエル監督の喜劇映画『グラン・カジノGranCasino』のために急遽作られたものだそうです。
『グラン・カジノ』は歌がふんだんに盛り込まれたメキシコのミュージカル映画です。石油ブームに沸くメキシコの小さな町で、油井の経営者エンリケが無頼漢が経営するグラン・カジノで失踪します。 エンリケの妹で歌手のメルセデスはグラン・カジノに乗り込み、油井の横取りをたくらむ黒幕を突き止める、という話です。
映画の中でヒロイン・メルセデス役の女優リベルタ・ラマルケが歌うのがディセポロの『エル・チョクロ』です。 役の上ではメルセデスはアルゼンチンからメキシコに戻って来たという設定ですが、ラマルケは本当にアルゼンチンからやってきたタンゴの歌手でした。 ラマルケはかのエヴァ(大統領夫人にしてアルゼンチンの国母。エビータの名で知られる元女優。)との因縁によりアルゼンチンでの芸能活動から締め出されてメキシコに来たという事情だったようです。
ディセポロの歌詞では犯罪・違法行為に明け暮れるスラムの様子が歌われています。歌詞には麻薬を混ぜた酒やら隠語など、ご紹介しかねる単語がいろいろ出てきます。 かなり下世話で自虐的な歌詞ですが、金持ちも警察もスラムの連中も一皮むけばトウモロコシ野郎、人間とは詰まるところ欲望と感情だ、というディセポロの哲学が感じ取れます。 貧困や犯罪と隣り合わせで暮らさざるを得ないアルゼンチンの下層階級の人々の気持ちを代弁していると考えられます。
救いとなるのはこれが喜劇映画であることです。こうした境遇さえも歌にして笑い飛ばしてしまう庶民的バイタリティが溢れています。 そう、みんな必死で生きているのです。貧しい人々を支える歌がタンゴなのです。
世界的ヒットへ
ビジョルドから半世紀のちの1952年には英語の歌詞も作られました。曲名はトウモロコシではなくて『キス・オブ・ファイア』となり、歌詞もスラムと関係ない情熱的な愛の歌になっています。 ジョージア・ギブスGeorgia Gibbs (1919 – 2006)の歌で大ヒットして、アメリカではタンゴは売れない、というジンクスを破る一曲となりました。
この曲の日本語版が『火の接吻』で、戦後日本におけるタンゴブームの先導役となりました。曲名からも想像がつくと思いますが、この曲の強いパッションは本家ゆずりです。 『エル・チョクロ』は世界各地でタンゴブームを巻き起こしてきた曲なんですね。