楽曲紹介「スラヴ舞曲集(Slovanské tance)」

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第16回は、「スラヴ舞曲集(Slovanské tance)」をご紹介します。

 『スラヴ舞曲集・作品46』(1878年)および『スラヴ舞曲集・作品72』(1886年)はアントニン・ドヴォルザークが故郷チェコの民族舞曲のリズムや特徴を取り入れて作曲した舞曲集です。 作品46は第一集、作品72は第二集とも呼ばれます。

 『スラヴ舞曲集』には様々な舞曲が使われています。第一集は8曲から成り、ボヘミアとモラヴィアの舞曲で構成されています。 また第二集も8曲ですが、スロヴァキアやセルビア・クロアチアなど第一集では見られなかった地域の舞曲も含んでいます。

 時に躍動的に時に哀感を込めて変化するメロディーやリズム、そしてエキゾチズム。この曲集は広大なスラヴの多様な村々を巡って歩くような楽しさがあります。

「スラヴ」とは

 ヨーロッパの民族をラテン系, ゲルマン系, スラヴ系の3つに分けると、スラヴ系は人口2億6000万人で、ヨーロッパでは最大勢力ということになります。

 スラヴ人のふるさとについては諸説ありというのが実情のようです。その一つが、現在のウクライナの北辺がスラヴ人の発祥の地であるとする説です。 5-6世紀には東欧全体に移り住むようになったと言われています。

 スラヴ人は現在のポーランド、チェコなどの西スラヴ、ロシア、ウクライナなどの東スラヴ、セルビア、ブルガリアなどの南スラヴに分かれます。さらにその中にさまざまな民族が含まれます。 居住地域も広いので文化の多様性は推して知るべし、といったところです。当然音楽も多様。民族音楽の宝庫とはまさにこの事ですね。

ボヘミアとモラヴィア

 『スラヴ舞曲集・作品46』(第一集)ではボヘミアとモラヴィアの舞曲が取り上げられています。

 ボヘミアは現在のチェコの西半分にあたる地域のことです。プラハを中心都市とする地域で、ドヴォルザークのふるさとです。

 これに対してモラヴィアはチェコの東半分の地域です。かつてモラヴィア王国が作られた時代もあったようです。 一つの国でありながら東西で成り立ちが違うんですね。

 ちなみに現地では、チェコの国名やボヘミアはチェヒというそうです。

ドヴォルザークの出世作

アントニン・ドヴォルザークAntonín Leopold Dvořák(1841-1904)はプラハ近郊の小さな村で生まれました。 音楽的な環境には恵まれていなかったようですが、地元でヴァイオリン、ピアノの手ほどきを受けることができました。 その後、作曲も行うようになりましたが、作曲家としては遅咲きでなかなか芽が出ず、暮らしぶりは苦しかったそうです。

大変有名なエピソードですが、ドヴォルザークは30歳代半ばを過ぎたころ作品がブラームスに認められました。 その後ブラームスから舞曲集を作るように勧められて作曲したのが『スラヴ舞曲集 作品46』だということです。この曲集は好評を博しドヴォルザークの出世作となりました。 チェコでは認めらなかったドヴォルザークの才能を見出したのはドイツ音楽の巨匠だったのですね。

この曲集はピアノ連弾でしたが、続けてドヴォルザーク自身の手で管弦楽版が作られました。こちらもオーケストラの定番曲となりました。

その8年後には第二集『スラヴ舞曲集・作品72』が出され、ドヴォルザークの作曲家としての地位は確固たるものになりました。

『スラヴ舞曲集 作品46第8番』

 第一集のうち『スラヴ舞曲集 作品46第8番』は最終曲として大きな盛り上がりを見せる人気曲です。 プレスト4分の3拍子ですので、大変快活な(といいますか激しいと言ったほうがよい)舞曲であるといえます。

 この曲で使われているのはフリアントというボヘミアの舞曲だそうです。特徴的なのはヘミオラと呼ばれる始まりの部分です。 三拍子2小節を二拍子3小節に分割しその後に3拍子が続くため、全体では2拍+2拍+2拍+3拍+3拍というフレーズで演奏されます。 こうしたリズムは他では見かけることがない独創的なものですね。どのような振り付けで踊るのでしょうか。

『スラヴ舞曲集 作品72第2番』

 『スラヴ舞曲集・作品72第2番』はこの曲だけが取り上げられるほどの名曲中の名曲です。

 第8番とは打って変わって、寂寥感が迫るゆったりとした曲になっています。 中間部以外は抒情的で、あまり踊りらしくないように思うのですが、これもボヘミアの舞曲でドゥムカ(複数ならドゥムキー)というそうです。

 ドゥムカとはスラヴ語で「思い」とか「瞑想」といった意味の言葉であるとも言われています。 哀感たっぷりに歌い上げるので、そのままに哀歌とも訳されたりするようです。

 第一集、第二集ともそれぞれ8曲ずつあり、各曲は続けて第1番から16番と呼ばれることもあるそうです。 この曲は第二集の2曲めなので第10番となりますね。

『スラヴ舞曲集』と民族意識

 チェコはヨーロッパのほぼ中央に位置しています。このためチェコは、北からポーランド、西からドイツ、南からハンガリーと、さまざまな民族から支配を受けてきました。 16世紀以降は多民族国家に組み込まれ、ドイツの影響を受け続けていました。

 しかし19世紀後半になるとオーストリア帝国からの独立を求める民族運動が活発になってきました。 それと同時に音楽においても、民族色の強い曲によってチェコの独立意識を高めようとする活動が広がりました。

 ドヴォルザークの『スラヴ舞曲集』はまさに民族主義が台頭する時代に書かれたものです。 民族舞踊を芸術に昇華させることでチェコ人の自覚と誇りを呼び覚ますのに一役買ったことは間違いありません。 ドヴォルザークはボヘミアへの強い愛着を持ち、民族の尊厳には芸術が必要と考えていたそうです。 自作の楽譜の出版の時、名前がチェコ語で書かれていないことに抗議したというエピソードもあります。

 『スラヴ舞曲集』第二集を見るとスロヴァキアやセルビア、クロアチアなどチェコ以外の舞曲が多く含まれています。 この点からすると第二集はタイトル通りスラヴの舞曲集であるといえます。 これらはいずれもオーストリア帝国の統治下にあったスラヴ系民族の舞曲です。 ひょっとするとドヴォルザークは、チェコのみではなく、すべてのスラヴ民族の自由と独立を念頭に置いてこの曲集を作ったのかも知れませんね。