スペイン音楽小史
Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「関連情報」では、では、当団で取り上げている楽曲に関連するマメ知識をご紹介していきます。
第6回はスペイン音楽小史についてをご紹介します。
スペインの音楽には長い歴史があり、多くの作曲家が多様な曲を残しています。 今回は、スペインの民族舞踊と管弦楽やギターが結びついていった過程を見ていきたいと思います。
17世紀のスペイン音楽事情
17世紀初頭。ローマでは、後にバロックと呼ばれることになる新しい芸術が誕生していました。 ベネチアやフィレンツェでも同じような動きが始まり、イタリアはヨーロッパの芸術の中心地として成長していきました。 イタリアで最先端の芸術に触れ研鑽を積むことは当時の芸術家にとって一流の証でもありました。 こうして新しい才能が別の才能を呼び寄せ、ローマはヨーロッパ各地から来た芸術家であふれるようになりました。
この流れは建築や絵画にとどまらず、音楽にも波及していきました。 音楽先進国といえばイタリア、という状況であった訳で、各地から音楽の研究を志す才能が集まりました。 スペインからやってきた学僧ガスパル・サンスもその中の一人でした。
ガスパル・サンス
ガスパル・サンスGaspar Sanz(1640-1710)は17世紀に活躍し、ギター作品の基礎を築いた人として知られています。 ちなみに、フランシスコFrancisco Bartolome Sanz y Celma が本来の名前。ガスパルは自分で考えた名前だそうです。
サンスはスペインの東部・アラゴン地方の出身です。 サンスはスペインで最も古い大学であるサラマンカ大学で音楽、神学、哲学を学びました。豊かな家の生まれだったので、当時としては最高の教育を受けることができたのです。
サラマンカ大学は、13世紀に創設された大学です。現存する大学としてスペイン最古と言われています。 パリ大学、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学などとほぼ同じ時期に作られた、歴史と伝統のある大学です。 調べてみるとスペインにはバリャドリッド大学、ムルシア大学など歴史の長い大学がいくつもあるようです。日本では大学はどんなに長くても明治以降の設立ですから150年にも届きませんね。
サンスはサラマンカ大学を卒業した後、イタリアのナポリに行きました。
イタリアではバロックの時代に入ると、器楽が盛んにおこなわれるようになっていました。 それまでの器楽ではリュートという楽器がよく使われていたのですが、リュートに代わってバロック・ギターが主流になりつつありました。
サンスはスペイン総督のオルガニストを務める傍ら、イタリア人からバロック・ギター音楽を学びました。 帰国後は、スペインの民族舞踊を取り入れてギターの曲を作りました。サンスによってスペインの民族舞踊とギターが結びつけられたのです。
サンスは多才な人で、詩人、作家、ギター奏者としてマルチに活動しました。 スペイン王の王子ドン・ファン (フアン・ホセ・デ・アウストリアJohn Joseph of Austria1629-1679)のギターの家庭教師でもありました。
ギターの教則本も書き、その後長らくギター教育の定番の教則本であり続けましたが、バロック・ギターの衰退とともにサンスは人々から忘れられていきました。
18世紀のスペイン音楽事情
18世紀になると、スペインにもイタリアやフランスなど音楽先進地域から、新しい音楽が「輸入」されるようになってきました。 スペイン王室をはじめとして、各地で宮廷音楽の文化が花開きました。声楽家なども招かれて、スペインの宮廷はイタリアの音楽であふれるようになりました。 著名な作曲家がスペインにやってきたことで、スペインの音楽も次第に洗練されていきました。
スペインにやってきた作曲家にはスカルラッティやボッケリーニなどがいます。
ドメニコ・スカルラッティDomenico Scarlatti (1685-1757)はイタリアのナポリの人です。チェンバロの名手として知られ、ポルトガル王室に招かれました。 リスボンで王女に音楽を教えていましたが、王女がスペイン王室に嫁ぐと、一緒にスペインに行き、その後はマドリッドで活動しました。
またルイジ・ボッケリーニRidolfo Luigi Boccherini(1743-1805)は『ボッケリーニのメヌエット』によって日本でも知られた作曲家です。イタリアのルッカの人で、チェロの名手として若くして名声を集めました。26歳のときスペイン王室に招かれ、生涯マドリッドで活動しました。
19世紀のスペイン音楽事情
19世紀になると、ギター音楽はクラシックギターの時代になります。 フェルナンド・ソルFernando Sor(1778-1839),ディオニシオ・アグアドDionisio Aguado y García(1784-1849)などの巨匠が活躍した時代です。 スペインの作曲家によってギターはスペイン独自の文化として発展していきました。
一方、スペインの国外では、スペインのエキゾチズムが関心を集めるようになってきました。これはヨーロッパ全体に見られる動きともいえる状況でした。
スペインのリズムや舞曲に触発されて、さまざまな作曲家が作品を作りました。 フランスではラロ『スペイン交響曲』(1874年)、ビゼー『カルメン』(1875年)、シャブリエ『狂詩曲スペイン』(1883年) などが知られています。 スペインから離れた国でも、グリンカ『スペイン序曲』(1845年)、ヨハン・シュトラウス『スペイン行進曲』(1888年)などの例があります。
外国におけるスペインブームにもかかわらず、スペイン国内では相変わらずイタリアやフランスの音楽が主流でした。 こうした状況に対して、スペインでもリズムや旋律など自国の素材を取り入れた音楽を作るべきだ、と主張したのがフェリぺ・ペドレルでした。
フェリぺ・ペドレル
フェリぺ・ペドレルFelipe Pedrell Sabaté(1841-1922)はカタルーニャ生まれで、作曲家、音楽学者でもありました。スペインにおける国民楽派の提唱者です。
きっかけはローマに留学したことでした。ペドレルはローマの古文書館でスペイン音楽の蓄積に出会い、その偉大さを発見したのです。 ペドレルは、当時すでに忘れられていたガスパル・サンスを再発見しました。また、国内の若手音楽家に対して民族主義の啓蒙も行いました。 ペドレルに触発された音楽家たちにより、20世紀にかけて国民楽派が誕生することになったのです。
国民楽派の作曲家をみてみましょう。
イサーク・アルベニスIsaac Albéniz(1860-1909)とエンリケ・グラナドスEnrique Granados(1867-1916)は共にペドレルと同じカタルーニャの出身でした。 ペドレルに出会い、その後、ピアノ曲や歌曲、歌劇を手がけました。
また、マヌエル・デ・ファリャManuel de Falla (1876-1946)は20世紀初頭にオペラやバレエのための管弦楽曲を作りました。『三角帽子』、『恋は魔術師』などはとても有名ですね。
ホアキン・トゥリーナJoaquín Turina(1882-1949)も国民楽派の一人です。ピアノ曲、管弦楽曲、ギター曲などを残しました。
ギターと民族音楽を結びつけたサンス。サンスを再発見したペドレル。そしてペドレルの啓蒙により生まれた管弦楽と民族音楽の融合。 今回は、民族舞踊と管弦楽やギターが、どうやって融合されてきたのかを見てきました。
そこには隣国イタリアの文化的貢献や先人の活動、そして後世における再評価などがありました。 先人の蓄積が後に思いがけず発見されて新しい音楽になっていく、という繋がりは歴史の妙味ですね。
一度人々から忘れられてしまったサンスの曲も、現在ではネット上で散見されるようです。秋の深まったこの季節。たまには吹奏楽をはなれてバロック・ギター、というのもいいかも知れません。