楽曲紹介「柔」
Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第19回は、『柔』をご紹介します。
『柔』は美空ひばりの歌で知られる昭和の名曲です。 「七色の声」を出すといわれた天才的な歌唱力で、昭和を代表する歌手であり続けた美空ひばり。 今回は芸に生きた伝説の歌姫のお話です。

伝説の歌姫
美空ひばり(1937-1989)は横浜市で生まれました。9歳で歌手としてデビューすると、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と呼ばれました。 その後日劇で歌うようになり、映画への出演やレコードデビューなど活動を広げていきました。
12歳で映画主演を果たし、『悲しき口笛』(松竹)が大ヒットしました。 この時にシルクハットに燕尾服で歌った主題歌は45万枚を売り上げ、当時の最高記録となりました。
その後も『東京キッド』、『あの丘越えて』、『リンゴ園の少女』(挿入歌「リンゴ追分」)などヒットを連発しました。 ひばり主演の映画はこの時期だけで100本以上制作されました。生涯で150本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演という神話を作った映画女優でした。
1964年からは映画から舞台に軸足を移します。歌に芝居を加えた舞台公演が人気を博しました。 この時期は、『柔』(1964年)、『悲しい酒』(1966年)など代表作を次々と発表しました。 1970年代~1980年代前半はニューミュージックやジャズなど新しいジャンルにも取り組みました。
その後は身内の死があり、自身もケガや肝硬変、大腿骨壊死に見舞われました。 完治しないまま退院し強行した「不死鳥コンサート」は、芸人としての魂魄を語る伝説のステージと言われています。
1989年に52歳で亡くなり、葬儀には4万2千人が参列しました。 通算レコーディング曲数は1,500曲、オリジナル楽曲は517曲。女性初の国民栄誉賞受賞も話題となりました。
『柔』
1964年。ひばりは離婚騒動の渦中にいました。この騒動の直後に発表した曲が、関沢新一作詞、古賀政男作曲の『柔』です。
この曲は、同じ年に開催された東京オリンピックともあいまって、翌1965年にかけて180万枚を売り上げました。 これは、ひばりのそれまでの全シングルの中で最高の売上枚数でした。1965年に第7回日本レコード大賞を受賞しました。
作詞をした関沢新一(1920-1992)は東宝の映画監督でした。『モスラ』、『キングコング対ゴジラ』などのゴジラシリーズの脚本家でもありました。 作詞家としては、ゴジラシリーズの主題歌のほか、『柔』(美空ひばり)、『姿三四郎』(村田英雄)、『涙の連絡船』(都はるみ)、『歩』(ふ)(北島三郎)といった作品もあります。
古賀政男(1904-1978)は5000曲とも言われる歌謡曲を手がけ、「古賀メロディー」として親しまれた、昭和の大作曲家です。 母校・明治大学でマンドリンとギターの腕を磨き、卒業後は作曲家として活躍しました。 昭和初期の作品には『酒は涙か溜息か』、『丘を越えて』、『影を慕いて』などがあります。戦前は、『二人は若い』、『東京ラプソディ』、『青い背広で』、『人生の並木路』など。 また戦後は、『悲しき竹笛』(美空ひばり)、『柔』、『悲しい酒』などでミリオンセラーを連発しました。死後、国民栄誉賞を受賞しています。
柔道人気
『柔』がヒットした背景には、当時の柔道人気もありました。
柔道は明治時代に嘉納治五郎が柔術を改良して作り上げたものだそうです。警察の必修科目となったことから全国的に広まりました。
昭和17年(1942年)には、富田常雄が小説『姿三四郎』を書きました。会津の若者が柔道に入門し、試合を重ねつつ人間として成長していく、という内容です。 続編として『柔』、『続・柔』も書かれ、昭和23年に完結しました。この小説は黒澤明により映画化され大ヒットしました。
昭和30年代になると、日本の柔道が初めてオリンピック正式競技となったこともあり、東京オリンピックを見越して柔道ブームが起こりました。 柔道を題材にした番組が作られ、村田英雄が主題歌を歌いました。
そして昭和39年(1964年)に放映されたのが、平井昌一主演の『柔』です。原作は富田常雄の小説『柔』です。主題歌を美空ひばりが歌って大ヒットになりました。
この年開催された東京オリンピックでは、日本選手が柔道で金メダルを獲得する大活躍を見せ、柔道ブームは過熱しました。 翌年以降も柔道人気は続き、映画とテレビで新作が続々と放映されました。
この道を信じて
『柔』の歌詞は日本人の勝負観・人生観を含んだ内容になっています。
勝負観については、オリンピックの決戦前夜の選手の心境と重ねて捉えることもできます。 勝負の歌ですが、悲壮な感じはありません。晴れて大勝負の舞台に立てる身の幸いに感謝する雰囲気さえも感じられます。
「勝つと思うな、思えば負けよ」は有名な歌詞です。無我の境地、無欲の欲というのでしょうか。 仏教的センスと同時に真の勝負師でないとたどり着けない境地ではないかと思います。実に深遠な歌詞であると思います。
人生観については、自分が選んだものに一意専心し、その分野でエキスパートを目指す、「道」という生き方が謳われています。
ー不器用な生き方しかできない俺が恋の想いにふけるなどガラじゃない。俺は柔の鬼だ。柔道だけを考える。それが俺の生き方だ。
あらゆる誘惑や邪念を払い一心不乱に努力する姿に大きな賞賛と尊敬の念が集まるのです。
『柔』はこの時代の価値観を言い当てた曲ということができます。
昭和39年当時、日本は「オリンピック景気」に湧いて、高度経済成長の真っただ中にありました。 大都市と地方の差はあったにせよ、すべてが上り調子で暮らしは年々豊かになり、多くの人が楽観的な未来を想定していました。
今日の仕事が明日の幸せにつながると信じて、日本中が土日返上で働き続けていた"仕事の時代"です。 一人一人がめざす「この道」、その先にきっとある幸せな「ハレの日」。 多くの人が、柔道選手の活躍に自身の姿を重ね合わせ、『柔』の歌詞を口ずさんだことでしょう。 人々の夢を投影する歌だったからこそ、『柔』は大きな共感を呼んだのだと思います。