楽曲紹介 ポルカ『観光列車』Vergnügungszug

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第34回は、ポルカ『観光列車』をご紹介します。

 『観光列車』は、オーストリアのワルツ王・ヨハン・シュトラウス2世Johann Strauss II(1825-1899)が1864年に作曲しました。

 当時オーストリアには、オーストリア南部鉄道という会社があり、各地に観光列車を走らせていました。 その開通式に着想を得て作ったと言われています。

 軽快に列車が進む様子を表現したもので、"ポルカ・シュネル"と呼ばれるポルカの中でもテンポの速い曲です。 発着の警報にはトライアングルを鳴らしたり、列車の進行にはホルン、という具合に楽器の使い分けもあり、 楽しい人気曲となっています。

乗り物嫌いのヨハン・シュトラウス2世

 『観光列車』を作ったヨハン・シュトラウス2世ですが、実は旅行嫌い、乗り物嫌いだったといわれています。

 1872年にアメリカ・ボストンに指揮者として招かれたときは、大西洋を越える長い船旅に恐怖心を抱き、遺言書まで書いたと伝えられています。こんな調子ですから、列車がゼメリング峠という絶壁を進むと仄めかされただけで怖がったそうです。

 その一方でヨハン・シュトラウス2世は1856年から1865年まで10年にわたり、夏のシーズンにはロシアで演奏会をしています。ヨハン・シュトラウス2世はこれによって応分の報酬を手にできましたし、皇帝アレクサンドル2世一家も姿を見せたり宮殿に招かれたりと、ロシア宮廷からは絶大な歓待を受けていました。

 そうは言ってもオーストリアからロシアまでとなると大変な長旅です。 乗り物嫌いのヨハン・シュトラウス2世には難行苦行の旅だったことでしょう。

オーストリア南部鉄道とは

 『観光列車』の着想の元になったオーストリア南部鉄道はオーストリア帝国の主要路線として建設されたものです。産業革命と、来たるべき工業化時代の需要を満たすため、ウィーンと地中海(アドリア海)を結ぶように鉄道が敷設されました。アドリア海のトリエステは、現在はイタリア領ですが、当時オーストリア帝国唯一の港であり、トリエステとウィーンを結ぶ鉄道は帝国の発展に欠かせないものだったのです。

 鉄道は1840年から部分開業し、1854年には難関のアルプス山脈部分が完成しました。そして1857年についに地中海岸のトリエステに到達したのでした。

 トリエステは南部中欧で最も巨大な主要港湾・大都市に成長し、オーストリア・ハンガリー帝国の国際海洋貿易も発展しました。また陸の孤島と呼ばれていたアドリア海沿岸の町々は観光地に一変しました。

ゼメリング峠

 ウィーンから主要都市・グラーツ経由でトリエステに出る鉄道を作るには、アルプス山脈を越える必要がありました。

 地図でみるとアルプス山脈はウィーンのすぐ近くまで迫っているのがわかります。 あのウィーンの森でさえアルプス山脈の一部ですし、森といっても高さ900メートルにも迫る"丘"もあります。 オーストリアはアルプスに深く包まれているのです。

 アルプス超えの最大の難所は高さ965メートルのゼメリング峠でした。 グロックニッツからミュルツツシュラクに至る全長41キロ、高低差460メートルの区間は大変険しく、難工事を伴いました。工事は1854年に完成し、ゼメリング鉄道と呼ばれています。

 ゼメリング鉄道ははじめてアルプスを越えた鉄道、つまりヨーロッパ最初の山岳鉄道でした。鉄道が到達した高さとしては当時世界一でした。急カーブ・急勾配を克服した技術力の高さや、重機もコンクリートも使わず手作業と石のみで6年という短期間に工事を終えたことは、オーストリア鉄道建設の誇りとされています。

 また古代ローマの建築方法に倣って作られている美しい石のアーチ橋や、開業当時の姿のまま現在も基幹路線として使われていることも評価され、世界遺産に登録されました。

鉄道で変わる社会

 イギリスで蒸気機関が発明されたのは18世紀後半ですが、1825年には初の商用鉄道として実用化されました。石炭の運搬が当初の目的でしたが、都市間で人の輸送も行うようになり、本格的に鉄道の時代が始まりました。

 イギリスの成功を見たアメリカやヨーロッパ諸国はイギリスに対抗する形で鉄道敷設に邁進しました。 ヨーロッパでは、19世紀後半には鉄道建設が活発化し、年間数千から1万kmという異常なペースで鉄道網が作られていきました。この過熱した鉄道建設の時代は鉄道狂時代と呼ばれます。鉄道は政治とも直結し、国の威信と命運をかけた政策でした。

 鉄道によって産業が発展し、社会は大きく変わっていきました。 人々の生活水準や生活様式も変化し、それまで高貴な身分の人にしか許されなかった観光や保養目的の旅を市民階層も楽しめるようになったのです。

 オーストリア帝国内にも各地に保養所が作られました。山地では温泉保養地、沿岸部では海岸保養地がにぎわいを見せ、鉄道会社はそれらの地域に観光列車を走らせていました。

 観光旅行が広まると、それまで寒村にすぎなかった地域が急に都会風の利便性を備えた町並みになったりしました。 また鉄道を利用して、都会には帝国内の各地域をはじめ外国からも多くの人々がやってくるようになりました。 こうして観光、産業、文化の国際化と成熟が進み、 ウィーンはヨーロッパ文化の中心として、空前の繁栄を誇りました。



 『観光列車』は鉄道による観光時代の到来をタイムリーに取り上げた曲です。 産業企業協会の舞踏会のために作曲したと伝えられていますが、この中には主要企業として鉄道会社も含まれていたことでしょう。