楽曲紹介 『彼の名誉(His Honor)』

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第39回は、『彼の名誉(His Honor)』をご紹介します。

 今回は不景気を吹き飛ばす軽快なマーチのお話です。

 『彼の名誉』は典型的なサーカス・マーチで、アメリカの作曲家フィルモアが1933年に作曲しました。

 1933年といえば世界は大恐慌の真っ只中。アメリカは深刻な不景気から何年も抜け出すことができずにいました。 そこで政府は積極財政を行い、政府主導の公共事業によって雇用を創出しようとしました。 このマーチはこうした時代背景に関係しています。

 では詳しく見てみましょう。

スクリーマーとは

 『彼の名誉』はいわゆるスクリーマーと呼ばれる、非常に活発でテンポの速いマーチです。サーカスマーチとも言います。 テンポは毎分140拍くらいと、とても速く、終盤は極限までテンポをあげて演奏されることもあります。

 おなじフィルモアの『ボーンズ・トロンボーンBones Trombone』(1922)、『ローリング・サンダーRolling Thunder』(1916)といった曲もこのジャンルに入ります。フィルモアはトロンボーン奏者だったからでしょうか、どちらもトロンボーンが大活躍する曲です。

ヘンリー・フィルモア

 ジェームス・ヘンリー・フィルモア,ジュニアJames Henry Fillmore, Jr.(1881-1956)はオハイオ州・シンシナティ出身の作曲家・編曲家です。トロンボーン奏者でもありました。

 幼少期からピアノ、ギター、バイオリン、トロンボーンなど各種の楽器をマスターしました。フィルモアはシンシナティ音楽院で学び、卒業後はサーカス楽団長として米国を旅しました。10代のころにも旅をしたくてサーカスに加わっていたことがあるそうです。

 1920年代にはシンシナティで地元のバンドを国内最高のバンドに育成するなど、指導者として活動しました。 その後、活動拠点をマイアミに移し、作曲・編曲のほか数々の学生バンドを指導しました。 250曲以上の作品を残した多作家で、そのうち半分ほどはマーチだということです。

 個性的なのは、曲のジャンルや難易度に合わせていくつものペンネームを使っていたことです。 ペンネームの中には女性名のものもあると言われています。

 たくさんのペンネームを使ったのは、ヘンリー・フィルモアとして出版された音楽が市場に氾濫すると、顧客が自分の作品を購入するのを思いとどまってしまうのではないかと心配したためだそうです。 多作家ゆえに、作品を出すほど陳腐化して商品価値が下がることを懸念していたのでしょう。 シンシナティで音楽出版社を経営していましたので、経営上の都合があったのかも知れません。

 他には、作曲の傍ら「フィルモア・バンド」という自身のバンドも持っていて、人気のプロ・バンドとしても活動しました。

「彼の名誉」とは

 フィルモアの出身地は五大湖に近いオハイオ州にあるシンシナティという町です。 作曲当時、シンシナティの市長を務めていたのはラッセル・ウィルソンRussell Wilson(1876-1946)という人物でした。 「His Honor the Mayor」を訳すと「市長閣下」。『彼の名誉』は市長の偉業を讃えるマーチなのです。

 1920年代、アメリカでは空前の好景気にありました。しかし、投資が過熱する一方で失業者が増大し、経済危機が迫っていました。購買力に対し生産力が余る状態になっていたのです。そして1929年、ついにアメリカは深刻な不況に陥りました。アメリカの不況はたちまち世界恐慌となりました。

 不況の波はシンシナティにも及びました。 ウィルソンはこの困難な時期に市長になり、1930年から1937年にかけて市長を4期8年務めました。 ウィルソンはフィルモアと同じシンシナティの出身で、地元の大学で学び、 卒業後は新聞記者として働いていた経歴の持ち主です。

 ウィルソンは公共事業に力を入れ、雇用創出と建設ブームによって不況を乗り切ろうとしました。 中でも、壮大な鉄道駅舎・ユニオン・ターミナル駅の建設は政策の目玉でした。

 駅と関連施設の工事は5年がかりで進められて1933年に完成しました。 従来の駅舎のイメージを一掃する巨大で美しい建築群は市民にも好評で、人々は誇りに思いました。 開業の式典には高揚した大勢の市民が集まったということです。

 熱心なウィルソン支持者だったフィルモアは、この偉業を讃えるべく、マーチ『彼の名誉』を献呈しました。

 ウィルソンは市長引退後もさまざまな政治活動を続けました。ユーモアのセンスにあふれた演説家だったそうです。

ユニオン・ターミナル駅とは

 ユニオン・ターミナル駅は市内に分散していた5駅・7路線を一つの駅に統合するほか、市内の交通機関との連携も図る目的で作られました。 それまでの駅は狭く、近くを流れるオハイオ川の増水の影響を受けることもあるなどの問題を抱えていたのです。

 新しい駅舎は大規模な盛り土をした上で建設され、貨物施設や関連施設も備えた交通の一大拠点となりました。

 注目に値するのはそのモダンなデザインと機能的な設計でした。 間接照明を用いたホールや壁画などの装飾も備えており、駅舎は開業当時、「交通の偉大な神殿」と呼ばれました。

 しかしアメリカの鉄道需要はすでに低下の一途にあり、回復することはありませんでした。 このため駅は閉鎖に追い込まれましたが、その後規模を大幅に縮小して再開されました。

 駅としての役割は低下しましたが個性的な建築・デザイン・壁画や装飾には今なお価値があり、 図書館や複数の博物館を内包するランドマークとして活用され続けています。

何度でも楽しめる曲

 この曲の楽しいところは、曲のあらゆる部分において自由な解釈で演奏できることです。 例えば、くりかえしの箇所では 1回目はffで2回目はppにするといった極端な強弱指定をしたり、 TRIOの演奏では毎回楽器の編成を変えてみるなど、楽団の事情に合わせていろいろな演奏ができるのです。

 マーチというとテンポは固定で楽譜通りの正確な演奏が要求されるのが一般的ですが、『彼の名誉』に関してはそのような堅苦しさは要らないようです。フィルモア自身、この曲を楽譜の通りに演奏したことは一度もなかったそうです。

 コンサートの定番にすれば、趣向を変えて何度でも使える"お得な曲"といえますね。