楽曲紹介 『スラヴォニック・ラプソディ 第一番(Slavonic Rhapsody No.1)』

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第35回は、『ラヴォニック・ラプソディ 第一番(Slavonic Rhapsody No.1)』をご紹介します

 『スラヴォニック・ラプソディ 第一番(Slavonic Rhapsody No.1)』(邦題『スラヴ狂詩曲 第一番』)は、ドイツの作曲家・カール・フリーデマンが1904年に作曲しました。

 この曲には、スラヴの人々の歴史や暮らしを想像させる多彩なメロディーが次々と登場します。 抒情的にしみじみと歌うかと思えば、一転して勇壮・悲壮な場面に変わります。 最後は軽快なテンポと活気に満ちたメロディーで華やかに締めくくります。

 この曲からは東欧の波乱万丈の歴史やその中で力強く生き抜いてきたスラヴの人々の心意気を感じることができます。

ラプソディとは

 ラプソディ(Rhapsody)という言葉は古代における叙事詩の朗誦に由来するものなのだそうです。 音楽としては18世紀末から作られるようになった曲の形式で、異なる曲を自由に繋いで次々と場面転換する曲のことです。 ラプソディはその内容から、民族的な内容を表現した楽曲とも捉えることができるそうです。

 ラプソディは狂詩曲と訳されますが、狂詩とは諧謔や滑稽を主眼として書かれた漢詩のことを指します。 能に対して狂言、和歌に対して狂歌があるように、漢詩に対応するのが狂詩です。 現代では廃れていますが、江戸時代から明治初年にかけては文芸の一ジャンルとして確立していました。 狂詩の名人も存在し、ペンネームは狂号といいます。狂詩を集めた本(狂詩本)も盛んに出版されていたようです。

 ラプソディでは約束事に囚われず自由に曲の場面が移り変わります。その様子が狂詩本のようだということで、 ラプソディを狂詩曲と訳すようになったということです。

カール・フリーデマン

 カール・フリーデマンCarl Bert Ulrich Friedemann(1862-1952)は、ドイツのザクセン州にある小さな町・ミュッヘルンMücheln で生まれました。当時はまだドイツは統一されておらず、プロイセン王国と呼ばれていました。 また、ザクセン州はチェコとも近く、国境を越えればそこはもう西スラヴです。

 フリーデマンは21歳の時にはエアフルトのレユニオン劇場オーケストラの指揮者になるなど、若いうちから活躍しました。 ほかには、ヴァイオリニストやピアニストとして演奏したり、合唱団の指揮も行っていたようです。

 1891年には、フライブルク・イム・ブライスガウの第113(第5バーデン)歩兵連隊の楽団指揮者となりました。 ここで20年ほど活動するなかで、フリーデマンは指揮者および作曲家として国境を越えて知られるようになりました。 ほかにもバーデン王立楽長、王立音楽監督も務めましたが健康を害し、1912年に軍の楽団を辞職し、療養のためスイスのベルンに活動の拠点を移しました。

 ベルンではベルン市立音楽隊を指導し、コンクールで優勝するまでに演奏レベルを引き上げました。 フリーデマンはこのバンドと共にヨーロッパ各国で演奏旅行を行いました。

 フリーデマンは作曲家としても、2曲の交響曲をはじめ、室内楽、合唱、歌曲、マーチなどを作曲しました。 特にマーチは140曲あり、今でも世界中のバンドで演奏されています。

 マーチとして有名なものは、『皇帝フリードリヒ行進曲』Kaiser Friedrich Marcheと『グルース・アン・ベルン』Gruss an Bernです。前者は、自由主義を推進しようとしたドイツ皇帝・フリードリヒへの賛辞として作られたものです。 また後者はスイスに赴いたとき、ベルンへの挨拶としてベルン市を讃えるために作曲されたものです。

『スラヴォニック・ラプソディ』とは

 フリーデマンは生涯に『スラヴォニック・ラプソディ』を3曲作っています。

 今回ご紹介する第一番Op.114は、1904年に作曲されたもので、3曲の中では最も人気があります。 次いで人気があるのは第二番Op.269で、1934年の作曲です。最後の第三番Op.297は演奏時間が10分になる大曲です。

 第一番Op.114は、はじめは1903年にピアノ曲として作曲されました。 その後メイヒュー・レスター・レイクMayhew Lester Lakeによりバンド用に編曲されると、 エキサイティングで技巧的な点が魅力となり、たちまち人気曲になりました。 緊張感のある冒頭部、スリリングなフレーズが続く中間部など、各パートに腕利きのソリストが必要な難曲ですが、およそ半世紀にわたり、多くの軍楽隊や地域バンドの定番曲であり続けました。

 1910年にはアルト・サックスも含んだオーケストラ版が作られました。 ほかにもオーケストラ用の別バージョンや、さまざまなアンサンブル用の編曲も作られました。 これだけでも、この曲の人気ぶりがよく分かりますね。

 先に紹介した通り、フリーデマンはドイツ人です。スラブ人ではありません。つまり『スラヴォニック・ラプソディ』は ドイツ人がスラヴをイメージしてその印象を書いた曲です。 19世紀以降ヨーロッパに広まっていた外国趣味も、この曲の人気に一役買っていたのかも知れません。

 スラヴには二億人とも三億人ともいわれる人口があります。 スラヴの人々はバルカン半島から東ヨーロッパに及ぶ広大な大地で多様な民族性を生み出してきました。 華やかな民族衣装をはじめドゥムカやフリアントといった音楽などの魅力的な文化はその一例です。

 その一方で、スラヴ民族同士の相克や他の民族による支配・戦いといった苦難の歴史があったことも見落とすことはできません。このようにスラヴがもつ魅力的な文化や複雑な歴史など、いろいろなことを想像させてくれるのが『スラヴォニック・ラプソディ』なのです。