ファニー・クロスビーとその作品

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「関連情報」では、では、当団で取り上げている楽曲に関連するマメ知識をご紹介していきます。
第15回はファニー・クロスビーとその作品についてをご紹介します。

 ファニー・クロスビーはアメリカの宣教師、詩人、作詞家、作曲家です。 200種類ほどのペンネームを用いて、生涯に8,000曲とも9,000曲ともいわれる作品を残しました。 賛美歌やゴスペルソングを中心に、作品は実に1億部以上印刷されたと言われています。

 クロスビーの讃美歌は「シンプルで家庭的」あるいは「ロマンチック」と評価されて人気があり、 「ゴスペルソングライターの女王」、また「アメリカにおける現代会衆歌唱の母」と呼ばれました。

盲目の詩人クロスビー

 ファニー・ジェーン・クロスビーFanny Jane Crosby(1820-1915)は、ニューヨーク郊外の村で生まれました。

 生後間もなく不幸にも失明してしまい、続いて父親も亡くなりました。 幼少期は母親と祖母によって育てられましたが、メソジスト聖公会の会員になり、 教会に通うなどキリスト教に関わる生活をして育ちました。

 スロスビーは全盲ながらすばらしい記憶力を発揮しました。10歳ころからは聖書や福音書・詩篇をそらんじるようになったということです。最終的に大学院まで進み、ピアノ、オルガン、ハープ、ギターの演奏を学び、 優れたソプラノ歌手になりました。

 卒業後は、ワシントンの米国上院やニューヨーク州議会で演説および詩の朗読をして、 視覚障害者教育への支援を呼びかけたり、母校・ニューヨーク盲人学校の教員として、 文法、修辞学、歴史を教えるなどしました。

 讃美歌の作曲に加えてバプテスト宣教師としても活動し、 大統領への追悼文などを通じてクロスビーの詩編は次第に評価されるようになりました。

 クロスビーは奴隷制度に反対の立場を取り、北軍を支持して愛国的な歌を書きました。 また詩を通して戦争の悲しみや困窮する人々の救済を訴えました。

クロスビーの代表作

 クロスビーの作品は讃美歌やゴスペルソングが中心でしたが、ポピュラーソングもありました。 そのうちの幾つかは大変人気のある曲だったということです。 またカンタータ『花の女王』は全米で上演されるほどの成功を収めました。

 クロスビーは多作家で、作品の数は8,000とも9,000ともいわれています。 インスピレーションが湧くと一日に数曲を完成させるのは普通であり、10曲以上作ることもあったそうです。

 讃美歌として有名なものだけでも、以下の曲があります。

 ・『Pass Me Not, O Gentle Saviour』主よわがそばをば 聖歌540番,新聖歌283番(1868年作詞)
 ・『Rescue the Perishing』つみの淵におちいりて 讃美歌493番, 罪に沈む汝が友に 聖歌526 新聖歌435, 連合メソジスト賛美歌 591番,インマヌエル362(1869年作詞)
 ・『Blessed Assurance,Jesus Is Mine』ああ嬉し我が身も 讃美歌529番 聖歌231番(1873年作詞)
 ・『Jesus Is Tenderly Calling You Home』われにこよと主はいま 讃美歌1篇517番(1883年作詞)

『O Be Saved』おお、救われよ

 『O Be Saved』は1874年に書かれました。 歌詞の冒頭から『Sinner, how thy heart is troubled』とも呼ばれます。 日本では1997年の『救世軍歌集』(救世軍出版供給部・1997)に収録されているようです。

 罪びとよ、なぜいつまでも苦しみ続けているのか。今すぐ主に委ね、主の慈悲を受入れよ。 主はそのためにおられるのだから。という内容です。

 『O Be Saved』はサイラス・ジョーンズ・ベイルSilas Jones Vail(1818–1883)によって曲が付けられました。 ベイルはニューヨーク生まれで、教会でよく歌われる曲をいくつも残しています。

伝道者としての晩年

 クロスビーの詩を扱った本は1億部売れたと推定されています。 しかし当時の商習慣として、 作者であるクロスビーには賛美歌1曲につき1ドルか2ドルの定額料金が支払われるだけでした。 つまり作品の売上による利益はすべて出版社のものになっていたのです。 しかしクロスビーは、経済的または商業的な目的で作詞した訳ではないとして、 不満を言うことはなかったそうです。

 クロスビーの目標は、賛美歌を通じて100万人の人々をキリストのもとに導くことでした。 詩人および作詞家として活動するほかに、歌と詩の朗読のコンサートも行いましたが、 収益の半分は貧しい人々の援助に寄付していました。 このためクロスビーは金銭的な蓄えや家財をほとんど持たず、 極貧街の安アパートを転々としながら奉仕活動を続けました。

 晩年には自らを讃美歌作家・詩人ではなく、伝導者と位置付けて、救済活動に取り組みました。 ニューヨークの貧困層の多い地区で暮らし、救済を必要とする人々のことを常に気にかけながら、 救済活動や奉仕団体との連携、各地での講演や作詞・朗読などに情熱を注ぎました。

 クロスビーはアメリカやイギリスでよく知られており、大統領や政府要人とも面識がありました。 1905年には、それまでの功績を讃え、世界中の多くの宗派の教会で「ファニー・クロスビー・デー」が祝われました。 しかしその後も、クロスビーは暮らしぶりを変えることはなく、貧民街に住み続け、 得た金銭はすべて寄付してしまう生活を続け、94歳で亡くなりました。