楽曲紹介「Death or Glory(死か栄光か)」

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第22回は、『Death or Glory(死か栄光か)』をご紹介します。

 『Death or Glory』は、アメリカの作曲家・ロバート・ブラウン・ホール(R. B. Hall)によって1895年に書かれたマーチです。

 ホールはイギリスでも人気があり、イギリスでは自国の作曲家であると勘違いしている向きも多いほどだそうです。 実際、このマーチもイギリス中のブラスバンドによってコンサートやコンクールの時によく演奏されている曲です。

 過去にはNHK-FMの吹奏楽番組『ブラスのひびき』でオープニングに使われたこともあるとか。 コメディ ドラマ映画『Brassed Off(ブラス!)』のオープニング シーンでも使用されていますのでご存じの方も多いでしょう。

 今回は19世紀末のアメリカ、プロのブラスバンドが全盛を誇った時代に生まれた華やかなマーチをご紹介します。

ロバート・ブラウン・ホールとは

 R. B. Hallことロバート・ブラウン・ホール(1858-1907)はアメリカのメイン州にあるボウドインナムBowdoinhamという町で生まれました。

 メイン州はアメリカ北東部の小さな州です。メイン州の起源は先住民族を駆逐して入植が行われた、17-18世紀にさかのぼります。 緯度が高く冷涼で、自然環境が厳しいため、ポートランドの他にはめぼしい都市がない州です。ホールが生まれたボウドインナムはポートランドの郊外にある小さな町です。 ホールは広く活躍するようになってからも故郷メイン州から離れることはほとんどなかったと言われています。

 ホールは、父がコルネット奏者、母もピアニストという家庭に生まれました。こうした環境から、ホールは父親からコルネットの手ほどきを受けて腕を上げていきました。 ホールが成人しないうちにホールの父は世を去りますが、ホールは工場で働きつつ、19歳になるとバンドでの活動と作曲を始めました。

 20歳になるとソロ・コルネット奏者としてボストンで活動します。コルネット奏者としては広い音域をこなし、譜面より1オクターブ高い音で演奏することがよくあったそうです。 そのような演奏をするのはホールのバンドしかありませんので、聴衆は遠くからでもホールのバンドが行進してくることに気が付いたと伝えられています。

 ホールはその後、メイン州のバンゴーという町にあったバンゴーバンドを再建します。 バンゴーバンドの再建は大成功を収めました。町では、「R.B.ホールウィーク」と称するフェスティバルを行なってホールへの感謝の気持ちを表したということです。 ホールはバンゴー時代に、バンゴー地域のさまざまなバンドを指揮し指導をしました。

オールバニー第10連隊バンド

 続いて、ホールはニューヨーク州のオールバニー(Albanyアルバニー)という町の第10連隊バンドの再建にも乗り出します。 アルバニーは人口10万の町ですが、れっきとしたニューヨーク州の州都です。 当時このバンドは「音楽的に破産している」と評されるような状態でしたが、ホールは瞬く間にバンドを鍛え上げ、再建を果たしました。

 1901年にオールバニー第10連隊バンドはパンアメリカン博覧会(Pan American Exposition全米博覧会)に招待されて演奏を披露し、アメリカを代表するバンドとしての地位を手に入れました。

 全米博覧会は、1901年に半年の会期で、米国ニューヨーク州バッファローで開催された一大イベントでした。 アメリカ大陸の諸国が参加したこの博覧会は、電気や鉄道、映像技術などアメリカの圧倒的な工業力・技術力をアピールする場でもありました。

 全米博覧会にはマーチ王・ジョン・フィリップ・スーザJohn Philip Sousa(1854-1932)のスーザ吹奏楽団や イサカ バンドで絶大な人気を誇ったパトリック コンウェイPatrick Conway (1865-1929)のバンドなど国内の最高のバンド22組が出演しました。 第10連隊バンドも錚々たる一流バンドと肩を並べた訳です。

 『Death or Glory(死か栄光か)』はホールによって第10連隊バンドに捧げられました。 第10連隊バンドの音楽的進歩に対するホールの誇りがこの曲に反映されており、曲名も『第10連隊行進曲Tenth Regiment March』とも呼ばれるようになりました。

ニューイングランドの行進王

 ホールは作曲家としてマーチおよびブラスバンドを中心に作品を残しました。マーチだけでも62曲に上る多作家で、スーザになぞらえて「ニューイングランドの行進王」とも呼ばれるそうです。

 主な作品を見てみましょう

『New Colonial(ニュー コロニアル)』

 1901年に書かれたマーチです。ポートランドとバンゴーの中間にあるウォータービルという町の市庁舎建設に合わせて作曲されたものですが、イギリス軍の儀式でも演奏されるようになりホールの代表作となりました。

『Greeting to Bangor(バンゴーへの挨拶)』

 1894年の作曲。ホールがバンゴーのバンドの再建をしたことに感謝したバンゴ-市民がホールに金のコルネットを贈り、ホールはその返礼としてこの曲を作曲しました。

『Marche Funebre(マルシェ フネブレ)』

 1901年に作られた葬送行進曲です。ジョン F ケネディ大統領の 葬儀の際も海軍軍楽隊により演奏されたとのことです。



 他にも、地元の古い開拓地にちなんだ『Fort Popham(フォート ポパム:ポパム砦)』や 南北戦争時に地元の軍を率いた司令官を讃える『General Mitchell(ミッチェル将軍)』など地元愛が感じられる作品を多く作っています。

 ホールは重要な評価を受け、英国のバンドにも人気がありましたが、1902年に脳卒中となり、その後は作曲活動ができなくなりました。

 ホールの死後、1936年にはウォータービル市でホールの名誉を称えるための記念プログラムが行われました。 1981年には、メイン州では6月の最終土曜日を「R.B. Hall Days」とすると定められ、ホールを称え記念することになりました。 「R.B. Hall Days」のお祝いは、州全体で開催されているということです。

自信と活気

 ホールが活動した19世紀末は、アメリカ国内の産業や社会のしくみが劇的に変化していった時代でした。 国内が二分され60万人以上の戦死者を出した南北戦争の痛手を乗り越え、戦後のアメリカは一つの国としてまとまりを見せるようになりました。 そしてこの時期、アメリカ国内の産業は驚くべき急成長を遂げ、1880年代にはイギリスやドイツを抜いて世界の強国へと成長していったのです。

 19世紀末のアメリカでは市民文化も開花し始めました。ホールやスーザなどのバンドの活動も市民に熱狂的に迎えられ、華やかなプロ・ブラスバンドの時代が実現しました。

 ホールが作ったマーチからも、当時のアメリカの前途洋洋たる自信と活気を感じとることができます。 タイトルこそ『死か栄光か』という究極の選択を迫るかのような曲名になっていますが、悲壮感は全くありません。 反対に、死に等しい困難はあるかも知れないが我々は必ず勝ち栄光と賞賛を掴むだろう、という楽観的な確信と希望があります。 こうした少年のように純粋な明るさは、全てが上り調子な時代の風潮から生まれてくるものなのかも知れません。