楽曲紹介「ロンドンデリーの歌(Londonderry Air)」

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第21回は、『ロンドンデリーの歌(Londonderry Air)』をご紹介します。

 『ロンドンデリーの歌』はアイルランド島のデリー地方に伝わる曲です。 イギリス領北アイルランドでは事実上の国歌としての扱いを受けているほか、世界各地のアイルランド移民の間でも人気が高い曲だそうです。

 当初は歌詞がない器楽曲でしたが、この曲の短い中にも感動的なメロディは人々を魅了していきました。 有名になるにつれて、この曲にはさまざまな歌詞が付けられるようになりました。その数は一説には100以上存在するといわれています。こうした曲は他には例がないでしょう。

原曲にまつわる諸説

 この曲の原曲については、いろいろな説があるようです。

 たとえば、アイルランドのロンドンデリー地方のリマバディLimavadyに伝わる『オカハン族の嘆き』という曲が原曲であるとする説があります。 オカハン族はケルト人の部族で、17世紀にイングランド人によって土地を奪われるまで、ロンドンデリー地方のローバレーRoe Valleyという森に住んでいた人たちです。

 他にも、ローリー・ダール・オカハン(1570-1657年)が作曲した曲名不詳の哀歌が原曲だという説や、 エドワード・バンティングEdward Bunting(1773-1843)が1796年に出版した音楽集の中の『若者の夢(Aislean an Oigfear/The Young Man's Dream)』が原曲だという説などがあります。

 いずれにしても久しく、曲名は忘れられていたようで、1855年にロンドンデリー出身のジェイン・ロスJane Ross(1810–1879)がこの曲を収集し、出版したころには 曲名はなく、『Anonymos Air』とするしかなかったようです。

 その後アイルランドの詩人であり小説家でもあったキャサリン・タイナン・ヒンクソンKatherine Tynan Hinkson(1861~1931)によってタイトルは『ロンドンデリーの歌』とされ、定着していったということです。

さまざまな歌詞

 器楽曲だったこの曲には、後年様々な歌詞がつけられました。歌詞として有名なものをいくつか見てみましょう。

『私がお前の上で咲くリンゴの花だったなら(Would I were Erin's apple-blossom o'er you)』

 アイルランドの詩人だったアルフレッド・パーシヴァル・グレイヴズAlfred Perceval Graves(1846-1931)による歌詞です。 グレイヴズは1882年に作曲家チャールズ・V・スタンフォードCharles Villiers Stanford(1852-1924)と曲集『Songs of Old Ireland』を出版しました。 歌詞は、自身をリンゴやバラなど庭園に咲く花や窓辺に留まる鳩などになぞらえて、恋人が摘み取ったり手元に引き寄せてくれることを願う、というものです。

『アイルランドの恋の歌(Irish Love Song)』

 アイルランドの詩人・小説家であったキャサリン・タイナン・ヒンクソンKatherine Tynan Hinkson(1861~1931)が1894年に発表したものです。 『私がリンゴの花だったら』(Would God I were the tender apple blossom)ともいいます。 歌詞は、男性の立場で、自身をリンゴの花や実、あるいは野ばらやヒナギクなどに仮定したもので、愛する女性のそばにいたい気持ちを歌っています。

『ダニーボーイ(Danny Boy)』

 第一次世界大戦の前年である1913年に、イングランドの弁護士フレデリック・ウェザリーFrederic Edward Weatherly(1848–1929)が作詞したものです。 詩は先に出来上がっていたのですが、その後アイルランド人の間で人気のあったこの曲を知り、メロディとして採用したものだそうです。 歌詞では中世に時代設定をしており、バグパイブが鳴って兵が招集される中、出兵する我が子ダニーの無事な帰還を願う親心が描かれています。



 ロンドンデリーの歌は讃美歌にもなっています。松平惟太郎により1955年に作詞された讃美歌の第二編157番「この世の波風さわぎ」も、このメロディで歌われています。

デリーかロンドンデリーか

 古来、南欧を除くヨーロッパには広くケルト人が住んでおり、部族社会を形成していました。 ヨーロッパの北西に位置する大ブリテン島やアイルランド島もケルト人の土地でしたが、5世紀ころに大ブリテン島にはゲルマン人が侵攻し、イングランド王国ができます。

1 6世紀になると、イングランドはアイルランドの支配をもくろみ、北アイルランドに入植を始めます。 当時、北アイルランドのフォイル川沿いにはデリーというアイルランド人の町がありましたが、イングランド人はフォイル川を挟んだデリーの対岸に新たな都市を建設し、ロンドンデリーと名付けました。 イングランド人はこの町全体を「ロンドンデリー」と呼ぶように強制しましたが、アイルランド人はその後も「デリー」という呼称を使い続けて抵抗しました。

 イギリスによる支配が進むにつれて、イングランドやスコットランドからの移住者が増え、アイルランド人は土地を没収されていきました。 土地を手放し移民としてアメリカなどに渡る者が出るなどして人口も減り、アイルランドは次第に貧しくなっていきました。 ついには、イギリスに対する反乱やテロも起き、両国の間には解決困難な深い対立が生まれました。

 こうした歴史的な経緯から、北アイルランドはイギリスからの入植者の子孫とアイルランド人が混在するようになりました。 現代でも、住民の間の感情的な対立は解消しておらず、イギリスにより土地が奪われたと考えるアイルランドの人たちは「デリー」を用いることを好み、イギリスを支持する人たちは「ロンドンデリー」を用いるのだそうです。 このためイギリス政府は、法律上は、都市と県の名称は「ロンドンデリー」、地方行政区画の名称は「デリー」とするなどして配慮しているとのことです。

 「デリー」と「ロンドンデリー」のどちらの呼び方をするかで、その人の立場が判ることになるため、この曲に関しても「ロンドンデリー」という曲名を避け、 『Air from County Derry』(デリー県由来の歌)や『Derry Air』(デリーの歌)と呼ばれることがあるそうです。 世界に知られた美しい名曲が、支配・被支配という歴史的対立の影響を被っているとは、残念なことです。