楽曲紹介「Hoch Heidecksburg!(ハイデックスブルク万歳!)」

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第25回は、『Hoch Heidecksburg!(ハイデックスブルク万歳!)』をご紹介します。

 『ハイデックスブルク万歳!』はドイツの軍楽隊長を務めたルドルフ・ヘルツァーが1912年に作曲したマーチです。

 当時、ドイツ中部にはテューリンゲン諸国と呼ばれる小国群がありました。 小国群のひとつがシュバルツブルク・ルードルシュタット侯国で、当時の領主であるギュンター・ヴィクトル・フォン・シュバルツブルク・ルードルシュタット侯(長い名前ですね!!)の居城ハイデックスブルク城が曲名の由来です。

 ハイデックスブルク城は城というより宮殿で、周辺諸国を見ても群を抜く華麗さを誇っていました。この曲は、城の佇まいを写し取ったように、堂々としつつもさわやかな名曲です。

シュバルツブルク・ルードルシュタット侯国とは

 中世以降、中欧は神聖ローマ帝国によって支配されていました。 しかしこの帝国はローマ教皇の力で権威付けされた国だった上、皇帝がローマ教皇のご機嫌を損ねて面目を失ったり、皇帝が空位の期間があったり、という状態でした。

 その間に各地の有力者たちは自分の土地に小さな国を作っていきました。これが領邦というミニ国家です。領邦はピーク時には300もありました。 しかし小さな領邦は独立を保つのが難しく、時代が下がるにつれて次第に数は減っていきます。

 19世紀になると民族意識が高まって、ドイツの領邦は有力国プロイセンを中心に統一されました。 統一といっても20以上もの小国の連邦制です。その中には、プロイセンやバイエルンなど比較的大きな王国もあれば、領邦の生き残りである、侯爵が治める小さな国もありました。

 このうちドイツ中央部の100キロ四方の土地に10の国がひしめいていたのがテューリンゲン諸国です。日本で言えば新潟県くらいの土地が10か国に分かれて統治されているイメージです。 シュバルツブルク・ルードルシュタット侯国はその中の一つで、人口10万人足らずの領邦でした。

ハイデックスブルク城

 ハイデックスブルク城は、13世紀に建てられたあと、16世紀には宮殿に改築されました。ところが18世紀中頃に火事になり、かなりの部分を消失してしまいます。 その後は、50年を費やした大工事によってバロック様式に作り直したということです。バロック宮殿としてよみがえったハイデックスブルク城ですが、テューリンゲン諸国の中では、もっとも華麗な宮殿として知られた存在でした。

 ハイデックスブルク城は4-5階建ての建物です。お城は街のシンボル的存在になっていて、街を見下ろすガケの淵ギリギリのところにあります。 明るい黄色の城壁に加えてガラス窓も多く、権威的な感じはありません。お屋敷の建物は"コ"の字型に配置され、内側は石畳の中庭が造られています。中庭の壁も白と黄色という親しみやすい配色です。 現在は、博物館と公文書館も設置されているそうです。

『The Watch Tower』

 この曲は、英語圏では『The Watch Tower』として知られています。見張り台、望楼といった意味でしょうか。

 ハイデックスブルク城では、18世紀に行われた工事で、1744年には高さ40メートルの塔が建てられました。 現在でも、屋敷の一角には古びた石造りの鐘楼があります。おそらく当時のままなのでしょう。 周囲の黄色い美しい構造物と違って、ここだけがやたらと古く無骨で黒ずんだ石造りで、すごい威圧感があります。 この他には塔はないようです。これがこの曲の別名である"The Watch Tower"なのでしょうか。

 『The Watch Tower』はイギリス王立憲兵隊The Royal Military Police(RMP)の行進曲としても親しまれているそうです。MPは軍の風紀を取り締まる部隊なので、うってつけの曲名ですね。

ルドルフ・ヘルツァー

 この曲の作曲者ルドルフ・ヘルツァーRudolf Herzer(1878-1914)はドイツのテューリンゲンのロットレーベンという町の出身です。 靴職人の家の生まれで、音楽的に恵まれた家庭環境ではありませんでしたが、24歳のときテューリンゲン第七連隊第三大隊の軍楽隊に入隊しました。 そして30歳のとき、この軍楽隊の指揮者になりました。

 第三大隊の駐屯地はルードルシュタットでした。ルードルシュタット侯爵の居城がハイデックスブルク城なのは前述の通りです。 つまり、『ハイデックスブルク万歳!』は所属部隊の駐屯地とその領主ルードルシュタット侯爵を讃える曲なのです。

 この曲はヘルツァーの自信作だったのですが、発表時の評価は芳しくなかったそうです。ほどなくヘルツァーは軍楽隊を辞めてしまうのですが、自作マーチへの低評価が理由ともいわれています。

 1914年に第一次世界大戦が始まると、ヘルツァーは軍に戻り、志願兵として前線に赴きますが、武運つたなく重症を負い、35歳で亡くなりました。

評価と運命

 『ハイデックスブルク万歳!』は、よく知られた名曲ですが、ドイツ軍公認マーチではありません。 それは、この曲の曲調が軍隊で使うにはさわやか過ぎることや、正当なドイツマーチより演奏テンポが速いことなどが理由であるようです。

 確かに、前奏からして狩りに出かけるような民族的な調子ですし、その後に続くメロディーなど、この曲から軍隊が求める"強さ"や"重さ"を感じ取るのは難しいかも知れません。 それに当時のドイツではグース・ステップが採用されており行進速度は110拍程度でしたので、このテンポの曲でなければ行進する上での実用性がなかったとも考えられます。

 さて、軍楽隊を辞めたヘルツァーはこの曲の版権を出版社に売り渡してしまいます。 しかし楽譜が出版されると、軍の外での演奏の機会が生まれ、次第にこの曲の評判が広まりました。 そして戦間期の1930年代にはドイツ各地で演奏されるほど有名なマーチになりました。

 ヘルツァーの死去からいささかの年月が経ち、ようやく曲が世に迎えられる「時」と「場」を得たというところでしょうか。 戦死していなければ、ヘルツァーは作曲の成功を自分自身の眼で確かめることができたことでしょう。まことに「人の運」や「曲の運」というのは、解らないものです。