楽曲紹介「バイエルン分列行進曲(Bayerischer Defiliermarsch)」

Tb.パートの大槻です。
カテゴリ「楽曲」では、当団で取り上げている楽曲の紹介をしていきます。
第9回目は、ドイツのマーチ「バイエルン分列行進曲(Bayerischer Defiliermarsch)」をご紹介します。

 「バイエルン分列行進曲」は、1850年にアドルフ・シェルツァーによって作曲されました。 バイエルン地方では公式のバイエルン国歌より愛着がもたれていて、「秘密の国歌」と呼ばれることもあるほどだそうです。 19世紀に覇を為したプロイセン(プロシア)王国との関係に触れながら、地元で今なお愛されるこの曲について見ていきましょう。

作曲者・アドルフ・シェルツァーとは

ヤコブ・フィリップ・アドルフ・シェルツァーJacob Philipp Adolf Scherzer(1815-1864)はドイツ・フランケン地方で音楽家の家に生まれました。フランケン地方はバイエルン地方からみてすぐ北隣りの地域です。

18歳でバイエルン歩兵連隊の軍楽隊に入隊し、その後1848年には王立バイエルン音楽マスターになりました。 バイエルンの歩兵連隊の軍楽隊長を務めながら、いくつかマーチを作曲しました。

ドイツマーチの公式リスト

ドイツマーチには、曲名に記号や番号が付けられたものがあります。これは、ドイツ軍行進曲集「アルメマルセンArmeemärsche」の管理番号です。マーチに管理番号を付ける試みは、プロイセン王であったフレデリック・ウィリアム3世(フリードリヒ・ヴィルヘルム3世)が1817年に行進曲のリストを作らせたのが始まりだそうです。その後も順次追加されて今日に引き継がれています。

現在では、コレクションIは歩兵用の緩歩行進曲で115曲、コレクションIIは歩兵用の行足行進曲で269曲、コレクションIIIは騎兵隊の行進曲で149曲がそれぞれ登録されています。「バイエルン分列行進曲」はシェルツァーとしては唯一の曲ですが、「(AM II, 246)」としてこのコレクションに登録されている由緒あるマーチなのです。

変わる曲名

このマーチはシェルツァーが所属するバイエルン歩兵第7連隊の連隊長の要請により作曲されたものです。当初の曲名は「アヴァンシエ・マルシュAvancier-Marsch」といいました。これはドイツ語で、進軍または前進という意味です。当時のドイツでは連隊ごとに自分たちの行進曲を持っていて、シェルツァーの曲は歩兵第7連隊の行進曲になりました。

その後、曲名は「インゴルシュタット・パレードマーチIngolstädter Parademarsch」に変更されました。インゴルシュタットはバイエルン歩兵第7連隊が駐留していた町であり、この曲が書かれた場所でもあります。

シェルツァーの死後、バイエルン陸軍大演習での観兵式でこのマーチが演奏されました。バイエルン国王ルートヴィヒ2世はこのマーチを気に入り、バイエルン王国のマーチに引き上げることを自ら決定したと言われています。

このマーチは1866年のプロシア戦争(普墺戦争)と 1870-1871年の普仏戦争で大きな人気を博しました。この曲が有名になることで、シェルツァーも作曲者として世界的に知られるようになりました。

「アルメマルセン」にもある通り、この曲の現在のタイトルは「バイエルン分列行進曲Bayerischer Defiliermarsch」です。その一方で、現在でも「バイエルン・パレード・マーチ」として紹介されることがあるようです。これは曲名が度々変更されてきた経緯によるものと考えられます。

ちなみに分列行進とは、部隊ごとに分かれて列を作って行進することです。国王など受礼者の前では敬礼をして通ることになっています。

ドイツの覇者・プロイセン

長らくドイツは領邦と呼ばれる多くの小国に分かれていました。領邦とは、各地の有力諸侯が作ったミニ国家のことです。最盛期には300か国ほどありましたが、19世紀には20か国ほどに淘汰されました。領邦の中でも北方のプロイセン王国は軍国主義をとり、成長著しく領土も最大でした。次いで大きかったのは南方のバイエルン王国でした。

これら領邦国家とは別に、ドイツ人の国としてはオーストリア帝国もありました。オーストリア帝国は名門ハプスブルク家を戴く大国です。

19世紀後半になると、ドイツ統一の動きが起こりました。それはオーストリアを除外しプロイセンを中心としてドイツを統一しようとするものでしたので、 オーストリアとプロイセンの間で戦争になってしまいました。これが1866年のプロシア戦争(普墺戦争)です。

プロイセンはたった7週間で大国オーストリアに勝利しました。その後プロイセンは、干渉してくるフランスにも勝ち(普仏戦争1870-71)、ドイツ統一を成し遂げます。

芸術好きな国王・ルートヴィヒ2世

同時期のバイエルンの状況を見てみましょう。

当時のバイエルン国王はルートヴィヒ2世でした。国王は政治よりも音楽と建築が大好きで、国家予算を気にせずロマンチックな名城ノイシュヴァンシュタイン城やバイロイト音楽祭のバイロイト祝祭劇場などを作りました。

神話や伝説も好きなルートヴィヒ2世は、夢と孤独に沈んだロマンチストだったといわれています。シェルツァーの「バイエルン分列行進曲」を見出したのもこの国王ですし、今日バイロイト音楽祭が開けるのも、ワーグナーを保護したこの国王の芸術好きのおかげです。

バイエルンは地理的にプロイセンとオーストリアに挟まれています。プロシア戦争の時、ルートヴィヒ2世は戦争に消極的でしたが議会に押されて参戦し、オーストリア側として戦いました。結果は敗戦で、多額の賠償金をプロイセンに支払うことになりました。ドイツが統一されると、バイエルンはプロイセンが主導するドイツ帝国に取りこまれ、政治的影響力を失なっていきました。

王国は消えても

バイエルン王国が消滅しても、この曲はバイエルンでは広く知られた曲として残りました。 バイエルンは伝統的にオーストリアとのつながりが深い地域です。このためドイツの他の地域とは違う、独特の帰属意識・地元意識があるそうです。 そんなバイエルンの人々が大事にしているのがこの曲です。この行進曲はバイエルンの人々にとってバイエルンの自由の象徴とみなされているそうです。